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2024.02.14 コラム

コウノトリとお米と中谷がどうして関係あるの ?

なかのたにとお米

 36年前。昭和63年。高度成長の終わり、昭和の最後の頃。兵庫県豊岡市の一級河川円山川は米作りに適した肥沃で重粘土質の農地が広がり、県北の穀倉地帯といわれるほど美味しいお米がたくさんとれる場所。しかし、この恵まれた地域のたった一つの兵庫県豊岡市中谷という農家33軒の小さな村で、農業の未来を憂い、将来を見据えた全国でも希なお米作りの共同化。そのときも専従だった米作りのプロ数人が、30ヘクタール(約東京ドーム6個)の広い農地を田んぼを再整備して大区画に。田んぼで効率的に作業して、田植え、稲刈りなどの繁忙期には村のみんなで手伝う形は今も続いている。

 個人での農業は、機械が高価で重労働。農薬や化学肥料をたくさん使って作れば、お米がたくさん獲れるからと言う。でも、どう考えても使用する化学肥料や農薬は私たちにも、お米を毎日食べていただくお客様にとっても体によくない。

 

すでに兼業農家も多く、一人一人が農家で個々に農業をつづけても、息子も後を継がず、都会に出て帰ってこない。自由化でお米の価格も下がっていって、経費が売上を上回ってしまうのも時間の問題。自分の田んぼが守れなくなる、農地が、活気あるなかのたにが守れなくなるだろう。

コウノトリと一緒に中谷のお米で”人をつくる•村をつくる•未来をつくる

生まれ育った、自然や環境を保全しながら、高齢化が進む村を守りながら、みんなで明るく暮らしすことができたら。そして育てたお米でお客様にも健康でいてほしい。美味しいと言っていただきたい。お客様の声が励み。数人で取組んでも、なかなか効率化に制限ができてしまい実を結ばない。なかのたには一人も欠けずに、村の全部の農家が趣旨に賛同して力をあわせた。賛同しなかった人はいなかった。普通はあり得ないほどの、それはそれは大変な先輩たちの努力があっただろう。

そうすれば、もしかして、いずれ息子も。と。

コウノトリとお米-兵庫県や豊岡市と一緒にコウノトリの野生復帰に取り組む

ここ豊岡、中谷の近くで営巣していたのを最後に、日本の空からいなくなって絶滅した特別天然記念物の絶滅危惧種コウノトリ。昔から鳥類では食物連鎖の頂点に君臨する羽根を広げると2メートルもある鳥。森があって、綺麗な水がながれる川があって、田んぼには蛙やミミズや虫など、さまざまなコウノトリの餌が棲み、そうして生態系・生物多様性が維持されてきました。しかし、高度成長期に生産が優先。森が荒れたり、蛙や虫が農薬を体内に取り込んでしまい、最後にコウノトリが捕食。コウノトリの体内に濃縮蓄積されて弱ってしまったといわれている。

コウノトリの餌場は田んぼ。田んぼでは極力農薬を使わず、そこに住む人と、自然がバランスを保っている状態が理想。幸せを運んでくると伝わる、そんなコウノトリが再び空を舞うのを見てみたいと願う。

過疎化が進むこの地域。でも豊かな自然の中で、人も住みやすい環境をとりもどしたい。

兵庫県も豊岡市も農家も一緒に取り組んだ

お米作り

 こんな思いの中で豊岡市の米生産者は、団結して全国でもほかに例を見ないほど集中的にお米の無農薬裁培、減農薬栽培を進めました。兵庫県、豊岡市、JAなどが協力に後押し。野生復帰に向けてコウノトリをケージで育てました。東京23区がすっぽり入る豊岡の広さの中で、多くの農業者が協力して取り組んだのです。まだまだコストが高くつくお米で、作ってもたくさん収穫できない。なにしろ無農薬のお米を好むお客様は少なかったので、作る農家は少なかった。中谷ではすでにコウノトリの絵柄をいれて思いを込めた米の袋で六方銀米を作っていたので、みんなが作れる農法を研究するときには参考に。

 この取り組みの長年の成果で、一度はいなくなった希少な生き物も戻ってきた。このような考えも子ども達に食育として伝えていく。そして成果が実り、豊岡からコウノトリが17年前に野生復帰。

なかのたにの農場拠点は、6年前にラムサール条約湿地登録地に。全国各地でこのような農業が注目されて、コウノトリは野生の空を舞い、風に乗りあっという間に宮崎、宮城、時には韓国へ。各地でヒナがかえり、親は命をかけて育て、また巣立っていく。今では全国各地の環境の良い場所でヒナが育ち、増えて、およそ400羽ともいわれています。

一言では伝えがたい、コウノトリと中谷とお米。コウノトリが中谷のみんなを元気にしてくれた。